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法話の会【浄光寺 青山住職】②本当に貧しい人・本当に不幸な人とは

雑記

法話の会【浄光寺 青山住職】①人間は恥ずかしい存在より続きます。

欲を少なくして足ることを知る小欲知足(しょうよくちそく)

今、西本願寺の住職は親鸞聖人から数えて25代目で、44歳くらいの若い方がされています。その方が西本願寺の住職に就任しましたという法要が今から4年前に行われました。その法要を伝統報告法要と言い、京都の西本願寺で開催されたんですけれども、そのご門主様、本願寺の住職が「念仏者の生き方」というものを表されたんです。私は浄土真宗の教えをいただいているので念仏者なんですけど、念仏者としてこういう生き方をしていきましょうという風にお示し下さっているんです。西本願寺の住職がこの中でどんなことをおっしゃっているかと言うと、こんなことをおっしゃっています。

私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせて頂く事で、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、出来る限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へと作り替えられていくのです。それは例えば自分自身の在り方としては欲を少なくして足ることを知る、小欲知足(しょうよくちそく)であり、他者に対しては穏やかな顔と優しい言葉で接する和顔愛語(わげんあいご)という生き方です。

と、このように念仏者の生き方を示されているんです。自分自身に対しては欲を少なくして足ることを知る「小欲知足」、他者に対しては「和顔愛語」という生き方を念仏者としてしていきましょうと、本願寺のご住職がお示し下さっています。私たちは欲が多いですよね。バイキングでもあれが欲しいコレが欲しい、服でも家にどれだけあるか。体は一つしかないのに、たくさん服があります。で、欲しい服が手に入っても、また新しい欲しい対象が出てきます。そういう風に欲が多いです。でもそうじゃなくて、少ない欲で足ることを知る。そういう生き方をしていきましょうねとお示し下さっています。

南米にウルグアイという国があります。ブラジルとアルゼンチンに挟まれた小さな国ですが、そこの元大統領でホセムヒカという方がいらっしゃるんです。「世界一貧しい大統領」と称されているんですけど、その方がこんなことをおっしゃっていました。

「本当に貧しい人はどういう人か。それは、物を持っていない人ではなくて、いくらあっても満足できない人。それが本当に貧しい人です」

とおっしゃっていたんです。私たちはどうか。もしかしたらそのホセムヒカという大統領から見たら貧しい人かもしれないです。どれだけ物があってもまだ満足できなくて、あれが欲しい、これが欲しいっていう欲望を持ちながら生きています。だけれど、ホセムヒカという大統領は、本当に貧しい人はいくらあっても足りなくて満足できない人なんですよとおっしゃっています。

小欲知足の生き方をしていきましょうねと本願寺のご住職もおっしゃっているんですね。

穏やかな顔と優しい笑顔で接する和顔愛語(わげんあいご)

それから、他者に対しては穏やかな顔と優しい笑顔で接する和顔愛語という生き方。それは笑顔で優しい言葉遣いで人に接する。これが大事ですよとお示し下さっているわけです。笑顔とか優しい言葉遣いというのは私たち一人ひとりができる仏さまになるための菩薩行と言いまして、布施行という風に言うんですけど、お布施なんですね。笑顔で常にいることはお布施なんです。優しい言葉遣いで接することもお布施なんです。だから、私たち僧侶はお檀家の方からお布施というのはたいてい現金でいただくわけなんですけど、現金以外にも笑顔で出迎えていただくことや、優しい言葉遣いで接していただくこともお布施なんです。皆さんもぜひ現金だけではなくて、笑顔のお布施、また優しい言葉遣いのお布施、それから、席を譲るというのもお布施になりますし、その場所を綺麗に整えるというのもお布施になるんですけども、そういった布施行と言うもの、笑顔とか優しい言葉遣いというのはお金がかかりませんのでやっていただきたいなと思います。無財の七施(むざいのしちせ)と言って、笑顔、優しい言葉遣い、席を譲る、きれいにする、この他に三つあるんですけれど、お金のかからない布施というものを色々な人に施していただきたいと思います。

不幸が訪れない人とは

あとはですね、念仏者の生き方でこんなことをおっしゃっています。

私たちはこの命を終える瞬間まで我欲にとらわれた、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏様のようなとらわれのない、完全に清らかな行いはできません。しかしそれでも仏法をよりどころとして生きて行くことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏様のお心に叶う生き方を目指し、精いっぱい努力させていただく人間になるのです。とおっしゃっているんです。

私たち他者の喜びを自らの喜びになんてできないです。例えば家の隣の人が宝くじ5億円当たったからと言って、私たち嬉しいかというと全く嬉しくありません。まあちょっとくれるなら嬉しいですけどたいてい1円もくれませんから嬉しくないですね。でも、私たち他者の喜びを自らの喜びとできる範囲があるんです。どんな範囲か。例えば家族に嬉しいことがあったら、まるで自分のことのように喜べます。家族に悲しいことがあったら自分の事のように悲しくなります。家族はそれができますよね。その範囲を少しずつ広げていけば、他者の喜びを自らの喜びとする生き方が出来るわけです。例えばニュース映像で中東の方で空爆で幼い子とかお年寄りの方が亡くなる、ケガをされている映像を見ると、それを見ている瞬間は少し心が痛んだりしますね。でもニュースの話題が変わったらどうか。変わった瞬間にそのことを忘れてしまいます。でも、今は家族のことしか喜べないとしても、ご近所の人とか友人とかに範囲を広げていければ、地球全体が平和になっていくんではなかろうかと思います。

今アメリカ大統領選挙もひとまず終了したことになっているようですけれど、トランプ大統領の時はメキシコとの国境に壁を作ると言うように自己と他者を分断するという風に言われていましたけれども、仏教の教えというのはそうではなくて、自己と他者との壁を取り払っていって、他者の喜びを自らの喜び、他者の苦しみを自らの苦しみとする、そういう仏様のお心に叶った生き方を目指して、努力していくのが仏教徒、念仏者の生き方と言えるわけです。

大正から昭和の初めの頃に活躍された詩人で金子みすゞさんという方がいらっしゃいました。本州の山口県の方におられた女性の詩人なんですけど、その方が「さびしいとき」という詩を読んでいらっしゃるんです。どんな詩かというと

私がさびしいときに、よその人は知らないの。

私がさびしいときに、お友達は笑うの。

私がさびしいときに、お母さんは優しいの。

私がさびしい時に、仏様はさびしいの。

という詩です。

私がさびしい時に、よその人は知らないの。まあ、人の心の中を見ることはできないので、まったくの赤の他人であれば喜んでいるのか悲しんでいるのかなかなかわかりません。だからよその人は知らないのと。私がさびしい時に、お友達は笑うの。お友達も常に接していても子ども同士であればなかなかさびしいのかな、辛いのかなとわかることはできませんよね。それに対して、私がさびしい時お母さんは優しいのと。お母さんは常に子どもと接していますから、子どものちょっとした変化とかも察することができるんだと思います。あれ?うちの子どうしたんだろうと少し優しく接することになるんだろうと思います。そして最後、私がさびしい時に、仏様はさびしいの。私がさびしい時、仏様はさびしいんです。そして私が嬉しい時、仏様は共に喜んでくださるんです。そういうお働きの方を仏様と言うわけです。「私」と「仏様」というのは分断されているのではなくて、私が喜んでいる時には共に仏様も喜んで下さり、私が悲しんでいる時には仏様も共に涙を流しながら悲しんでくださる。そういうお働きの方を仏様と言う風に言うわけです。

仏様の働きを表す言葉に「慈悲」という言葉があります。慈悲の慈には「他の人の幸せをまるで自らの幸せのように思う心と行い」という意味があります。そして、慈悲の悲には「他の人の苦悩を共有し、その苦労を取り除こうとする心と行い」という意味があるんです。私たちの普段の心と行いと、仏様の心と行いを比べてみると恐らく180度違うということに気づくと思うんです。私たちの場合はどうかというと、他の人の幸福に関しては、敗北感を持って眺めていたり、他の人の苦しみ悲しみ悩みには冷淡な視線を送っているのが私たちの常だと思うんです。そういった人の事を本当は不幸というわけです。他の人の喜びを自らの喜びと思える人には決して不幸は訪れません。

法話の会【浄光寺 青山住職】③「日本人の幸せ」と「ブータン人の幸せ」へ続きます。