御文。

こんにちは、香華殿恵庭斎場 神尾です。

先日倉庫で作業をしていたら、すっころんで額をぶつけ、
ちょっとしたケガになりました。

スタッフの皆にも迷惑をかけてしまいました・・・。
気をつけます。

北海道の寺院で多い宗派といえば「浄土真宗」がやはり
多いのではないでしょうか?

浄土真宗のお式では最後に代8代蓮如上人が書いたお手紙「御文」が拝読されます。

私は地味にこの「御文」が好きなのですが、
なにせ応仁の乱のころの文章ですので、自分なりに調べて要約してみました。

まずは原文
「それ、人間の浮生なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。
されば、朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。」

・・・ながいですね(汗)これを私が勝手に解釈してみました。

「人間の何気ない日常、人生を考えてみるとおおよそ「儚い」というのは、
人間が生まれてから死ぬまでの間のことで、人生なんていうものは幻と同じです。

ゆえに、私は未だに一万年も生きた人の話を聞いたことはありません。
人の生涯は過ぎ去りやすいものなのです。今までに、百年も肉体を保てた人がいましょうか。
人の死とは、私が先なのか人が先なのか。今日かもしれないし、明日かもしれない。
人より先であろうが後であろうが、葉っぱの根っこに雨の滴が滴るより、葉っぱの先の露が
散るよりも多いのではないでしょうか。

だから、朝には血色の好い顔をしていても、夕方には白骨になる、それこそが人生ではないのでしょうか。無常の風が吹けば、どんな人もすぐに眼を閉じ、人一人の息が永遠に途絶えてしまうのなら、どんなに元気な人の顔もむなしく変わりはて、美しかった姿を失ってしまうのなら、家族や親せきがいくら集まって悲しもうともどうすることもできないのです。

そのままにしてはおけないので、野辺に送って荼毘にふし、夜更けの煙となったあとには、
そこには白骨が残るだけです。
哀れというにも言いきれないものがあります。
人生の終わりというのは、若かろうが年をとっていようが変わらずにやってくるのです。

だからどんな人でも、「後生の一大事」ということを真剣に受け止め、
阿弥陀仏からお力をいただいて、念仏を申すべきなのであります。」

・・・少し砕け過ぎたかもしれません。

この言葉、私結構すきなんです。

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